累計200万部突破の著者が実践!――愛はことばで伝える
人工知能や脳科学の専門家として、 生き方の指南書が好評を呼んでいる著者による 子育て本の決定版!
しつけ/育児
愛はことばで伝える
二つ目のポイントは、愛をことばで伝えること。
ことばにしなくても、愛された記憶は、たしかに脳の中にある。
たとえば、私の脳の中にも、「小学校5年生の夏、おたふくかぜで高熱を出した私を背負って、父が診療所まで歩いてくれた記憶」があった。
父の広い背中と優しい声、さらさらと流れる用水路の水の音、私たちの周囲を飛び交うホタルの淡い緑の光がなんとも幻想的だったこと......ただ、その思い出は、大人になってから、ふとしたことで浮かんできた記憶である。
こういうイメージの記憶は、脳の奥深くに、感性記憶としてしまわれている。
感性記憶は、何かの拍子にふと表出することがあるのだが、「思い出そうとして思い出せる」類いの記憶ではない。
私はこの世に生まれてきたかいがあったのだろうか、誰かに愛されたのだろうか――そんな自問自答の際に、的確に浮かぶ記憶の形式をしていない。
これに対し、ことばの記憶は、検索に引っかかりやすい。
自分を見失ったとき、親の愛のことばが救ってくれることがある。
生まれてきても、よかったの?
私の父は、息子に夢中だった。
私の弟である。
弟は美形で、頭もすこぶる良かった。
私は、2歳違いの弟に、オセロやカードゲームで勝てたことがない。
幼いときの2歳差は、圧倒的なアドバンテージなのに。
父の期待が、弟に集中したのも無理はない。
そもそも父は、母のお腹に私がいるとき、「女のような無駄なものが、俺に生まれるわけがない」と豪語して、男の子の名前しか考えず、「女の子だったら、どうしよう」と母を困惑させたらしい。
その不安通りに女の子が生まれて、父は泡をくったらしいが、どうやら期待は第二子に回して、「どうせ嫁に行く女の子」はかわいがることに決めたらしい。
私には、ひたすら甘い父だった。
弟は、すべての期待を背負うことになり、彼なりに過酷だったと思うが、私は私で、父にとって必要なのは弟だけだと思って育った。
その父が、私の息子が生まれたとき、「おまえが生まれたときを思い出すなぁ」としみじみと言ったのだった。
「初めての子だったから、何もかもが鮮明だ。本当に嬉しかったなぁ」
「お父さん、私が生まれて、嬉しかったの?」と思わず尋ねた私に、「当たり前だろう」と父。
私はびっくりして、それから胸がいっぱいになった。
私の脳の中では、オセロゲームの終盤の大転回みたいにパタパタと、何でもない記憶が愛の記憶に変わっていく。
無関心なのではなくて、おおらかにゆるしてくれたのだ。
あのことも、あのことも。
ことばとは、本当に不思議なものだ。
父が愛を伝えてくれたおかげで、私の30年の人生が、あらためて愛で包まれた。
母に聞いてみたら、「あ~、お父さんね、生まれる前はあんなに男の子しか要らんと騒いだくせに、生まれてみたらかわいかったらしくて、やっぱり持つなら娘だ、とか言って生まれて自慢して歩いてた」と言う。
だったら、そこまで言ってよ、と、心の中でつぶやいた私。
女の子は要らないと母を不安に陥れた話しか聞いたことがなかったのだもの。
母にしてみれば、これだけ甘やかされているんだから、そこはわかってるでしょ、ということだったらしい。
いや、ぜんぜん、わからなかった。
というわけで、息子をかいなに抱いた私は、「愛は、やっぱりことばにしなきゃ伝わらない」としみじみ思ったのであった。
赤ちゃん期に、目の前の柔らかい筋肉の動きと温かい息と共に与えられたことばは、脳の深層に残る。
だから、今この時点で意味を理解しなくてもいい、と私は思った。
かくして、私が明日死んでも母の愛が残るように、私は生まれてすぐの息子に愛を語ることにしたのである。
愛のことばは、いつから始めてもいい
愛を伝えること。
それは、生涯、子を支えることになる。
生まれてすぐからをお勧めするが、いつからだって間に合う。
31歳の子持ち娘だって、父親があらためて愛を口にすれば、人生が変わったのだ。
特に13歳から15歳までの子ども脳からおとな脳への移行期は、脳が不安と困惑の中にいる。
脳が変化期にあたり、各種機能の整合性が悪くて誤作動するので、本人の目論見どおりに動かないのだ。
このため、脳は自分自身への信頼を失い、自己肯定感が地に落ちる。
この時期、親の愛のことばと共にいれば、かなり楽に過ごせる。
親は愛を伝えなければならない。
子ども脳からおとな脳へ変わるとき
ヒトの脳は、2歳から13歳の間に大きくスタイルを変える。
パソコンのOSが替わるようなものだ。
12歳までの子ども脳は、感性記憶力が最大に働く。
感性記憶とは、文脈記憶(行動やことばの記憶)に、匂いや触感、音などの感性情報が豊かに結びついている記憶のこと。
12歳までの記憶は、それを想起したとき、感性情報が強く蘇ることがある。
たとえば、小学生の夏休みに、田舎のおばあちゃんの家で昼寝したことを思い出したとき、雨上がりの竹藪の匂いが鼻の奥にふんわり広がったりする。
あるいは、観光地に連れて行ってもらったことを思い出した瞬間、その日、口に入れていたキャンディの味を思い出したり。
つまり、子どもたちの脳は、ことの成り行き以外に、五感が受け取った感性情報も丸ごと記憶していくのである。
これらの感性記憶が、後の人生の発想力や情感の豊かさを決めるので、とても大事な記憶形式なのだが、これには欠点がある。
一つ一つの記憶容量が大きすぎて、人生すべての記憶をこの形式で脳にしまうのは不可能だということ。
さらに、大きな塊なので、検索に時間がかかり、とっさの判断には使いにくいということ。
このため人類は、脳を、成長の途上で、もっと要領のいい形式へと進化させるのである。
何かを体験したとき、過去の記憶の中から類似記憶を引きだしてきて、その差分だけを記億するような形式である。
これだと収納効率が圧倒的にいいので、「新しい事象」をどんどん覚えられる。
さらに、過去の類似記憶との関連性をタグ付けして記憶していくので、関連記憶を引きだすのに長けている。
この形式の脳だと、「人生初めての体験」に遭遇しても、過去の類似体験を使って、すばやく対応することができる。
1歳から15歳の間に脳に起こる変化は、とてもとても劇的なのである。
13歳から15歳までは、この新しいOSに慣れるための移行期に当たる。
同時に、分別や忍耐を司る脳の前頭前野の発達期でもあり、社会の中に潜む悪意にも出会い始める時期である。
思春期は、不安定な脳で、社会性に目覚めるとき。
さながら、蟬が幼虫から羽化して、柔らかく透明な羽で、おずおずと飛び立つときのごとく。
まだ家族に守られているにもかかわらず、脳は「一人ぼっちで世界に立ち向かう」ような気になっている。
このとき、親に愛された自負は、自尊心の核となる。
これがあれば、人は、そう簡単に自分を貶めるような行為には走れない。
子どもたちの脳に、美しい真珠のような自尊心の核をあげよう。
この世のすべてが彼・彼女を否定しても、絶対に消えない存在意義を。
「あなたが生まれてきて、本当によかった。あなたに出会えたことが、母の人生で最も尊く、愛おしいこと」と。
というわけで、「ことばで愛を伝える」が、この時期の子育ての最大のテーマだ。
「勉強しなさい」「部屋を片付けなさい」なんて言っても、何の役にも立たない。そんな小言を言う暇があったら、愛を伝えてほしい。
株式会社感性リサーチ代表取締役、人工知能研究者(専門領域:ブレイン・サイバネティクス)、感性アナリスト、随筆家。日本ネーミング協会理事、日本文藝家協会会員。
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